『なら、好きって言いなよ』
突然動きを止めてそう呟いた黄瀬の表情は至極真剣で、
黒子はどう反応すべきか分からなかった。
もともと相手の考えていることなど思惑の外。
さりげなく一定の距離を保とうとする人が、他人に心の内を明かすことはない。
例えば昼間の彼女もそう。
知らない誰かが内側に踏み込んでくることを極端に嫌い、欠片が見えれば即座に遠ざける。
それ故に、この人が人の心に踏み込むことも決してない。
それはきっと、誰にも、何にも、興味がないからで、
そういった類に開く扉を端から持っていないからだった。
愛想よく笑いながら、その裏でいつも淡つかなのを知っている。
なんでも持っているから何にも関心がないのか、
なんでもあっさりとこなせるから何をしても退屈だと感じるのか。
周りに人が多い分、それは黒子にとって殊の外顕著に見えたが、
それを周りに悟らせない処世術にもまた、黄瀬は長けていた。
『念のためですけど、酔って魔が差しただけなんで、』
思い出したのは、はじめて身体を重ねた日のこと。
『これっきりにして欲しい?』
『えぇ、話しが早くてよかったです』
『当然そのつもりだったけど、先に言われたのははじめてだから驚いたっス』
『相手に好意がないのは当然でも、自分に好意がないのははじめてですか』
『アンタはっきりしてるっスね』
『キミほどじゃないですよ』
『オレが?』
『楽しそうにみえて、本当はそうでもないですよね』
『すごいこと言うね』
『そう見えるんで』
『へぇ、よく分かったっスね』
『なんとも思ってないので、キミのこと』
『牽制もしすぎると逆に聞こえるっスよ』
『好きに取ってもらって構いませんよ、面倒なんで』
『いいね、そういうの攻略したくなる』
『やってみますか?ボクも心は開きませんよ』
『アンタ、本当によく見てるね』
はじめて見た楽しげな表情にどきりとして、
そんな顔もできるのかと思った時点で負けだったのかもしれない。
出会いがそれなら繕う必要もないからか、
互いに晒す飾らない態度は思った以上に楽だった。
まともに会話をしたことなんてほとんどなかったけれど、
稀に起こる他愛ない話の中で、自然と零れる表情があった。
近付けば近付くほど、長くいればいるほど囚われて、
自分でも気付かぬうちに導かれていた開かない扉の前。
言葉にすることは自覚することよりも危うい。
誰の侵入も許さないくせに、その領域へと無理やり引きずり出される。
「どうして、ボクがそんなことを‥」
長い沈黙のあとでようやく口を開いた黒子に、黄瀬はふっと笑みを零した。
「なんだ、ここまでくれば簡単に言うと思ってたんスけど、案外タフっスね」
「なにを言って‥」
「強情なアンタのことだから、なんも分かんなくなるくらいメチャクチャに抱いたら少しは素直になるかと思って」
思いもしなかった台詞に黒子はごくっと喉を鳴らした。
やっぱりこの人は最初からすべてをと、考えたくもない思いが頭を過る。
「もういいじゃないっスか」
でもそれなら尚更、このやり取りは黄瀬にとってもリスクなはずだった。
「好きって言ってみなって」
今まで他人の心には絶対に踏み込もうとしなかったのに、
どうしてよりによって今、そのリスクを負ってまでこの状況を楽しもうとするのか。
「ほら、早く」
好きだと言ったところで手に入らないのは分かっている。
だったらこれ以上の辛苦は要らないと、そう強く思っているのにどうしてこの人は、
「そしたらいいよ、この心、アンタにやっても」
こんなにも心を乱すのか。
絶対不可侵領域
黄瀬の唇から零れ落ちた台詞に黒子は耳を疑った。
そこに含まれる意図も真意も何もかもが闇の中。
それを知る術はない。
黒子はじっと見下ろす視線から逃げるように目を伏せた。
どうせ堕ちる運命なら、この際盲目的に信じてみるのもいいかもしれないと、
一握の期待に縋って逸る鼓動が痛々しくて、きゅっと唇を噛む。
「どうなんスか」
その仕種を見た黄瀬がゆっくりと上体を倒し、
反動で体内に納まっていた楔が奥へと進む。
「ん、ァ‥‥」
それは守っていた沈黙が破られた瞬間で、
思わず洩れてしまった声に黒子が慌てて唇を塞ぐと、黄瀬はにやりとほくそ笑んだ。
「言わないんスか?」
顔の横に両手を付いて、黄瀬が同じ言葉を繰り返す。
けれどそれがどんなに甘い声でも、黒子にはその一線を越えられなかった。
たとえさっきの言葉が本当だったとして、
心なく思うままに自由にしておきながら、どうして今そんなことが言えるのか。
新たな苛立ちが胸の奥に込み上げて、
この怒りに身を任せれば、これ以上振り回されることもきっとなくなると思った。
何を勘違いしているんだとはっきり告げてしまえばいい。
そうすればこの夜を境に、ようやくこの人との関係も終わる。
だから早くと、黒子は意を決して口を開いた。
「言うわけないじゃないですか、なぜ今ここでキミにそんなことを?」
分かりやすく嘲笑を浮かべながら視線を上げると、
それを待っていたように黄瀬が真剣な眼差しを返す。
「だってアンタ、セックスしてるときしか素直じゃないじゃん」
穏やかな口調がかえって威圧的で、黒子はふたたび言葉に窮した。
「いい加減、もう待てないんスけど」
「なんの‥ことですか」
「こっちはもうとっくに答えが出てるんスよ」
黄瀬から流れ出した今までにない雰囲気に、
ダメだと思いながらも黒子の鼓動が徐々に速くなっていく。
「けどアンタは、自分の気持ちに気付いて、ただ逃げてるだけっスよね」
確かにそれは事実で、意に反して奪われていく心に怯えた。
逃げられるものなら逃げたかったし、いまだってそう思っている。
「声殺すのも、早く終わって欲しいと思うのも、逃げてるからっスよね」
「ちが、‥」
「じゃぁなに?」
すぐさま遮られ、黒子は口を噤む。
「まぁ明るいところで会うアンタは素直じゃないから、昼間だったら許せたんスけどね」
仄めかすように黄瀬が薄っすらと口角を上げ、黒子は直感的に昼間の会話を思い出す。
『アンタ、逃げてるだけっスよね』
『なんのことですか』
『べつに、今はまだいいっス』
「でも、夜は許せないんスよ」
まるで読めなかった相手の思考がここへ来てようやく輪郭を見せ、
いつから気付いていたのか、何もかも見透かされていたことをようやく確信する。
「まさか、さっきの台詞、本気で言ってるんですか」
「じゃなかったらなんスか」
「信じるわけないじゃないですか、あんなふうに…」
「好き勝手にヤっといて?」
「自覚あったんですね」
「そりゃわざとっスからね」
「わざと…?」
「そこまで追い詰めないと、アンタ逃げるばっかじゃないっスか」
必要悪だと言うように今までのことを正当化する黄瀬に怒りが込み上げても、
言われるままにそれは間違っていないと思うから、黒子には反論できなかった。
「もういいっスよね」
決めつけるように有無を言わせず、ゆっくりと唇が寄せられる。
「早く、好きっていいなよ」
触れるか触れないかのギリギリのところでピタリと止まり、
互いの吐息が掠めるほどの距離に黒子の下腹部がずくっと疼いた。
「そしたら、アンタのモノになるから」
求めるような口調と、一際甘く響いた言葉に心臓が大きく脈打ち、
やっとの思いで繋ぎ止めていた理性を持っていかれそうになる。
黒子は渇いた喉をごくりと嚥下させると、
懸命に理性を手繰り寄せて、黄瀬の胸を押し返した。
「誰にも、心は開かないんじゃないんですか」
自分でもひねくれていると思うけれど、
だからといってこのまま相手の思惑通りになるのは癪だった。
「べつに開かないわけじゃないっスよ」
ここまで来ればさすがに折れると思っていた黄瀬は、
分かりやすく猜疑心を露にした黒子の反応が予想外すぎて、心ともなく笑みを零した。
こんなふうに思い通りにならないところが、最初はただ楽しくて、面白かった。
分かったような口調も、探るような態度も、いつもなら嫌悪するのに、
あまりにもはっきりと言うから興味が沸き、それが当たっていることに驚いた。
来るもの拒まず去るもの追わずは至極ラクで、
失って気付くなんてあり得ないと思っていたのに、
もう寝ないと言われて、頭から離れなくなるなんて滑稽だった。
誰かを落としたいと思うのも、ここまで必死になるのもはじめてで、
やり方が強引だったのは認めるけれど、はじめて欲したものを逃す気はなくて、
そんな感情が自分にあったことに、思った以上に冷めた性格じゃなかったことに驚いた。
だから、手に入れるためなら負ける駆け引きだってする。
「単純に、開きたいと思った相手がいなかっただけで」
まっすぐに見つめる黄瀬の目にどきりとして、
漂う雰囲気と、分かりやすく示唆する言葉に黒子は瞠目した。
それは裏を返せばどういうことなのか。
今までだったら絶対に、黄瀬がこんな言い方をすることはなかった。
「まるで告白みたいですね」
試すように言った黒子に、黄瀬はクスリと笑い、躊躇いなくそれを認めた。
「思ったよりも鈍くなくてよかったっス」
駆け引きをするなら勝つのが当たり前で、
わざわざ負けるなんてことは死んでもしない人。
そんな人が、相手に主導権を譲ることの意味。
それに気付いてこれ以上その言葉を疑う気にはならないけれど、
これで想い合っていたというのなら、お互いがお互いに不器用過ぎる。
黒子はこれまでの顛末を思い出してふっと頬を緩めると、
譲られた主導権なら大いに有効活用してやろうと、黄瀬の目をまっすぐに見つめ返した。
「なら、言うのはキミの方じゃないですか?」
悪戯に笑った黒子の表情に、黄瀬は思わず破顔した。
「アンタも大概素直じゃないっスね」
「意趣返しですよ」
黄瀬の皮肉を逆手に取って即答した黒子が、同じように微笑み返す。
はじめて見る楽しげな表情と、期待とは程遠い反応。
そういうところに惹かれるなら、どうしたって敵わないと黄瀬は笑った。
「それは甘んじて受けるしかないっスね」
今まで思い通りにならないことなど何もなくて、これからもずっとそんな日々が続くと思っていた。
つまらない、楽しくない、誰にも何にも興味が沸かない。
なのにこの人だけは唯一、出会ったときからずっと、何一つ思い通りにならない。
冷めた目で、可愛げのない口調で、決して媚びないくせに、
濡れた瞳で、熱い吐息で、容易く人を翻弄する。
見ているようで見てないくせに、見ていないようでよく見ている。
そういう矛盾が興味をそそれば、
唯一が特別になるのも、当然だったのかもしれない。
「好きっスよ、アンタのこと」
潔く注がれた言葉は情緒を纏い、全身を廻って黒子をぞくりとさせた。
それは絶対に手に入らないと思っていた想い。
震える指先で黄瀬の頬に触れた黒子は、
頑なに避けていた唇を求めるように、自分のもとへと引き寄せた。
「それなら、ボクも認めます」
そう囁かれた瞬間、黄瀬は黒子の言葉を飲み込むように唇を塞いだ。
「ん‥っ」
重なった唇も、洩れる吐息も、何もかもが熱くて、
黒子ははじめて相手の体温を知ったような気がした。
「ふ、‥ぁ‥‥」
徐々に激しさを増していく口付けが呼吸を奪い、黒子は堪らずに喉を鳴らす。
けれど黄瀬が唇を解放することはなくて、
舌を絡め、繰り返し角度を変えては、貪るようにその先をせがんだ。
どのくらい時間が経ったのか、不意に口付けが途切れ、
どちらともなく離れていった唇を透明な糸が繋ぐ。
気恥ずかしさに黒子が俯くと、黄瀬が思いがけず小さな笑いを零した。
「結局好きとは言わないところがアンタらしいっスね」
それは責めるというよりもむしろ呆れた声音で、
黒子は挑発されるままに、逸らした視線を戻した。
「キミの詰めが甘いんじゃないですか」
「アンタのために譲歩したんスよ」
「それはどうも」
「アンタほんとかわいくないっスね」
「願ったり叶ったりです」
「こんにゃろ‥」
真顔で悪態をつく黒子に黄瀬は悔しげに顔を歪めると、
噛み付くように再び唇を重ねた。
「ぜってぇいつか言わせる」
キスの合間にそう囁いた黄瀬に黒子はクスリと笑い、
けれど流れ込む想いに目の奥がじわりと熱くなっていくのを、止められそうにもなかった。
窓の外ではゆるやかな風が吹き、
ようやく今、 雲は流れ、月は傾きはじめる。