悪夢にも似た時間が始まり、最近ではそれが凌辱にさえ近いと思う。
本来の役割を忘れたかのように身体中の機能がそれだけに反応し、周りの声も耳に入ってこない。
他の学生の声も、教授の声すらも、まるで遠くの出来事のようにすべての音が消失する。
前方から感じる刺すような視線に耐え切れず、黒子は苛立ちからぎゅっとペンを握り締めた。
それもこれも今に始まったことではなくて、
こうなることを知っていて相手はいつも同じことを繰り返す。
己の悦楽のために、何度も、何度も。
濡れた瞳
同じ学科でも知らない人がほとんどの学内で、
まして学部が違えば卒業まで顔すら合わせない人もいる。
その中の一人だと思っていた人物。
黄瀬涼太。
ハデな容姿で入学当初から目立っていたとしても、
顔と名前以外のことは、この先もずっと知らないはずだった。
徐々に熱を帯びる身体と奪われていく思考。
抗うことはできなくて、支配されていく感覚にゾクリとした。
黒子はなんとかこの呪縛から逃れようと、相手に抗議すべく視線の先を辿った。
けれど目と目が合った瞬間、あのときを彷彿とさせる視線が反射的に肢体を強張らせた。
狭い研究室と、ディベートが発生する授業形態。
遠慮なく注がれる視線はここがどこかをまったく気にしていなくて、
じっと見つめる瞳が支子色に光って被食者の自分を誘う。
その目に捕まれば逃れられないと、分かっていたのにまた同じことを繰り返した。
自分を組み敷くときにしか見せない、あの艶めいた謂はぬ色。
イヤだと重ねる言葉を無視して、強引に身体を開かせるあの凌辱の時間。
痛みと快楽の狭間で涙を流し続ける姿を嬉しそうに見つめる、あの支配欲に満ちた瞳。
脚を割り開かれ、激情のままに腰を進められる頃、
肉欲を含んだねっとりとした目で見下ろされれば、抗うことも忘れて体内に自分以外の熱を導いた。
そのときの記憶が鮮明に蘇り、
走った戦慄から黒子は即座に視線を逸らした。
「…ッ」
けれどすべては手遅れで、再生された情事の欠片は瞬時に身体を侵していった。
四肢が小刻みに震え始め、沸き起こった熱が全身に伝わり、
脳裏に映し出されたさらなる淫事の残像に、正気を失いそうになる。
あの目を知らなかった頃に戻れたらどんなにいいか、それはもはや叶わなくて、
肌を合わせるたびに、その意味を強く身体に刻み込まれた。
そして気が付けば、あの目だけで反応するよう教え込まれていた。
「おい、大丈夫か?」
隣りに座っていた生徒に突然声を掛けられ、黒子はびくっと肩を震わせた。
「なんかさっきから震えてねぇ?」
「いえ、」
「顔も赤いし熱でもあんじゃねぇのかと思ってさ」
心配そうに眉根を寄せる相手に心中を悟られないよう、黒子は努めて冷静を装った。
「そんなことないですよ」
「ならいいんだけど、黄瀬もずっとお前のこと見てるし、気にしてんじゃねぇのか」
言いながら視線を移した相手は、黒子にも見ろというように顎で促す。
流れのままに断れなくて、顔を向けたそのとき、黄瀬の口元がふっと嘲るように歪んだ。
『ゼミ中にあんな分かりやすい態度とってたらみんなにバレるっスよ』
それは情事の最中、茶化すように言われた言葉で、
同じように歪んだ口元から、そのときの会話が急速に脳裏を過る。
『アンタが淫乱なのは知ってるけど、昼間からあれはダメなんじゃないっスか』
もしかしたらバレたのだろうかと、浮かんだ不安に背筋が凍り、
それからはただひたすらに、悪夢のようなこの時間が早く終わればいいと、それだけを渇望していた。
ゼミが終わり、皆が散り散りに解散し始める中、黄瀬が後ろからそっと声を掛ける。
「今夜部屋行くから準備して待っててよ」
耳元でそう囁かれて黒子は何も言えない。
濡れた視線に囚われて、疼く身体がこの人を欲している。
それは夜を待つことさえも焦れるほどで、抑えが利かなかった。
どうにもならない悔しさから鋭い視線で返すと、
黄瀬はそれを笑い、目の端に黒子を捕らえたまま横を通り過ぎた。
それは自分しかしらない色めいた甘い瞳。
これはすべて罠だと、劣情を満たすためだけに仕掛けられた姦計だと、
分かっているのに逃れられなくて、今夜もまた、言われるままに身体を開く。