何がきっかけだったのかなんて覚えていない。
要するに、忘れてしまうほど小さなことがきっかけだったんだと思う。
どちらが先だったのかも、何か気に入らなかったのかも、どうしてここまで悪化したのかも、今となっては記憶の彼方。
感情的だったのは確かで、気付いたときには売り言葉に買い言葉。
捨て台詞だけが脳裏に鮮明で、どうしてあんなことを言ってしまったのかと、冷静になった今、ひどく後悔する。
間が悪かったのか、虫の居所が悪かったのか、その両方だったのか。いずれにしても最悪の条件が織り重なって、勢いのままに折れるタイミングを失った。
いつもだったらきっと、気にも止めない些細なこと。
それがあのときはどうしても流せなくて、ずるずると平行線のまま、今日で何日目になるのか。
もう随分長いこと口をきいていない気がする。
ケンカノユクエ
黄瀬は誰もいない廊下を歩きながら、人知れず深く重い溜め息を付いた。
正確には一週間。他人に言わせれば「たかが」でも、黄瀬には十分過ぎるほど長い。
部活で会えば気まずいながらも会話はする。必要に迫られた至極事務的なやり取りだけれど。
目が合わせられないのは後ろめたい気持ちがあるからで、思うように会話もできなければ視線も合わせられない日常は、日に日に神経を疲弊させる。
本当はケンカ別れをしたあとすぐに、謝ろうとケータイを手に取った。けれど名前を出したところで咄嗟に怖くなって画面を伏せた。それから毎日同じことの繰り返し。
あのときに謝らなかったことを悔やまないわけではないけれど、そうできなかったのには悶々とした理由があって、複雑に絡み合う感情が、今もまだ行動を起こそうとするたびにブレーキを掛ける。
時間が経てば経つほど言い出しにくいと分かっていて、七日目の今日もきっと同じ。
好き過ぎて不安が消えないならその思いはただの我儘で、想い過ぎて信じられないならその気持ちはただの強要だというのは、きっと確かで、異論ない。
けれど今の相手にそんな余裕があるはずもなくて、どうしたって冷静にはなれないし、いつだって前後不覚になる。
つまらない不安もくだらない疑いも、相手の僅かな言動に過敏に反応して簡単に表面化する。
それを頭の奥で警告する自分がいるから、強引に払拭しては悟られないようにと振る舞っていたのに、今回はどうしてか沸き起こった焦慮に耐え切れず、無意識だったとはいえ言ってはいけない一言を口にした。
「あれはどう考えてもオレが悪いって分かってんだよ」
最後に放った言葉を思い出して黄瀬は居た堪れずポツリと呟いた。
どうしてこんなにも臆病になるのか、今までなら誰が相手でも感じることのなかった感情が深淵で燻ぶり続け、こんなのは本当にらしくない。
「でも思っちまったもんはしょうがないじゃん」
不貞腐れたように言いながら、黄瀬はコントロールできない思いに再び溜め息を洩らした。
こんなにも誰かを好きになることはきっともうないと思えるほど大好きで、でも報われることはないとずっと思っていた。
だからもしキセキが起こったら、誰よりも大切にするのに、絶対に傷付けたりしないのにと、あんなに強く思っていたのに、その決意を嘲笑うように何もかも上手くいかない。
だったらそんな面倒な関係やめてしまえばいいと、以前だったら悩みもせずに下していた決断は選択肢にもならなくて、失くしたときのことを考えるだけでゾクリと躰が震えた。
七日目にしてようやくこの結論に辿り着くこと自体遅すぎるのかもしれないけれど、たとえどんなふうに乱されても絶対に失くしたくない。
黄瀬は伏せていた目をゆるりと開けると、握り締めた両手に力を込めてくるりと踵を返した。
相手の教室へ辿り着くよりも早く、黄瀬はその途中で目的の人物を見つけた。こちらへ向かって疎らに歩く生徒の中にその姿を目にした瞬間、足早だったペースが落ちる。
どうやって呼び出そうか、なんて言って切り出そうか、どんなふうに謝るべきか、辿り着くまでに順を追って整理しようと思っていたのに、心の準備ができていない。
整理するどころか真っ白になっていく頭をそのままに、黄瀬はそれでもゆっくりと歩みを進めた。
一歩ずつ近づく距離と、叩き付ける鼓動の速さが比例して徐々に息が詰まる。自分が逃げないように、相手が消えないように、ずっと目を離さないでいたから、向こうがこちらに気付いた瞬間もすぐに分かった。
一瞬目が合って、すぐに逸らされた視線。引き返されることはなかったけれど、逸らされた視線はそのままに二度目はなかった。
徐々に距離が縮まって、自分の影が相手の足に掛かるほど近付いても、まっすぐに延ばされた視線は黄瀬を捉えなかった。
また一歩。
ドキドキと苦しくなるほど激しく心臓が鳴って、すれ違う寸前、黄瀬はピタッと足を止めた。
なんの根拠も理由もなくただ漠然と、そうすればきっと向こうも同じように足を止めてくれると思っていた。けれど現実はいつだって思うようにはならなくて、黒子は何も言わず、目を合わせることもなく、隣をスッと通り過ぎた。
どくっと大量の血液が身体中を一気に廻った気がして、狼狽と微かな目眩いが黄瀬を襲う。
― 失くしたときのことを考えるだけで
咄嗟に振り返った視線の先、再び遠くなる背中を目にして黄瀬は思わずその手首を掴んでいた。
強引に連れ去って、誰もいない空き教室に引き込み、扉を閉めるとすぐに黒子の唇を奪った。
相手の背中を伝いガタンと大袈裟に扉が音を立てたが、黄瀬はそれに構わず舌を挿入し口内を貪った。
両手を耳の後ろへ掛けて力任せに顔を上げさせ、呼吸できないほど強く唇を合わせると、黄瀬の身体を押し退けようと黒子の手に力が込められる。それに気付かないフリをして、唾液を流し込むように黒子の顎を親指で引いて舌を絡め取った。
「ん…、ふ、ぁ……っ」
鼻に掛かった吐息と淫猥な水音が教室に響いて、制服を掴んでいた黒子の指先から徐々に力が抜けていく。がくっと重心が傾いて、崩れ落ちる身体を支えるように黒子の股下へ膝を滑り込ませた黄瀬は、離れた唇を惜しむように目で追ったあとで、じっと瞳を覗き込んだ。
ハァハァと上がる息に苦しげな表情を浮かべながら、流れる唾液を手の甲で拭った黒子は恨みがましげに口を開く。
「突然なにするんですか」
それは当然の責めで、激情のままに言い訳など用意していなかった黄瀬には開き直るしかなかった。
「勢いっス」
黒子はその言葉にキッと黄瀬を睨み返した。
「ふざけてるんですか」
「ふざけてないっス」
言動とは裏腹に、そう答える黄瀬からは確かにそんな雰囲気は微塵も感じられなくて、黒子は察するようにトーンを和らげた。
「ボクたち今ケンカしてますよね」
「そうっスね」
「そういう事実とかキミには関係ないんですか」
「だからって、無視はよくないっス」
傷付いたと言わんばかりに言い切る黄瀬に、黒子はふぅーっと溜息を付いた。
「都合いいですね」
冷静な台詞に黄瀬はびくっと肩を震わせた。じっとこちらを見据える瞳に耐えられないほど、それは正論だった。
「ごめん」
黄瀬は素直に謝ると、ゆっくりと姿勢を正してもう一度口を開く。あのときのことを謝るのならきっと今しかなかった。
「あのときも今も、勝手なこと言ってごめん」
その姿に黒子ハァっと吐息を零すと、伸ばした腕で黄瀬の襟元をぐいっと引っ張った。
「え、あ‥!?」
突然のことに驚く黄瀬を余所に黒子はさらに顔を近付けると、最後にゆっくりと唇を重ねた。それは触れただけですぐに離れていったけれど、黄瀬には思いもよらなかった。
「キミは何をそんなに怯えているんですか」
短い口付けのあとで黒子がそう問いかけると、黄瀬はぐっと言葉を飲み込むように押し黙った。黒子はそれならと質問を変える。
「ならキミは、ボクが誰にでもこんなことをすると思ってるんですか」
「思ってないっスっ」
その問いにはすぐさま答える黄瀬に、黒子はふっと満足気に笑った。
「じゃぁボクは、好きでもない相手にこんなことをすると?」
「そんなこと一度も思ったことないっス」
「当然です、だから疑われたら傷付くんだってこと、ちゃんと知ってください」
そう言って切なげに笑った黒子に、あのとき放った言葉が脳裏に蘇ってズキリと胸が痛んだ。
― 黒子っちはオレのことなんて好きじゃないんスよっ!
「ごめん、黒子っち」
その一言に黒子はふわりと笑うと、両手を頬にもう一度唇を引き寄せて、重なる間際、小さな声で囁いた。
「好きに決まってるじゃないですか」
単純かもしれないけれど、たったそれだけで瞼の奥がじわりと熱くなった。
たとえどんなに心を乱されても、それ以上に満たされるものがあるから、絶対に失くしたくないと、どんなときも思ってしまうんだ。