あー…参った
黄瀬はふらふらと家路に就きながら、ほとんど諦めたように心の内でそう呟いた。
駅を出たときには降っていなかった雨。確かに曇り空ではあったけれど、こんなにも急に降り出すとは思ってもいない。
頭上に注ぐ大粒の雨に自然と天を仰いで、黄瀬はハァと溜息を零した。
この程度の雨なら走って帰ってもそうそう被害はないだろうし、駅からまだそんなに遠くはないのだから引き返して傘を買ってもいい。けれどそうできない理由が今の黄瀬にはあって、それがひどく頭を悩ませていた。
「家までもつと思ったけど甘かったか」
途方に暮れた黄瀬がそう呟いたとき、追い打ちを掛けるように雨脚が俄かに変わる。ザァァァァと凄まじい音を立てて空が唸り、瞬間的に叩き付けるような豪雨が黄瀬を襲った。
これはさすがに歩き続けられるような雨量ではなくて、ゆらゆらと歩みを進めながら辛うじて風雨を凌げるほどの軒下を見つけた。
寒さにブルっと肢体が震えたがそれ以上の最善策が見つからず、とりあえずここで雨宿りでもしようと、さほど慌てるふうでもなく身を寄せる。
天をひっくり返したような雨を見つめながら、黄瀬は再び心中で呟いた。
いよいよもってツイてねぇ‥
雨やどり
あれからだいぶ長いことぼーっと不機嫌な空を眺めている。今の黄瀬にとってこれが通り雨だろうとそうでなかろうと大差はなくて、ただひたすらに決断を迷うだけだった。
ここまで激しくなった雨の中じゃ誰も外には出ないだろうし、偶然誰かが通り掛かったとしても、その誰かと相合傘をして帰るのも現状では厳しかった。
「どうしたもんかねぇ」
若干投げやりながらも虚ろな頭をそれなりに働かせている。けれど良策は一向に浮かばない。
無数の線となって降り注ぐ雫が地面を蹴って、勢いよく跳ね上がる。そのさまを見つめながら吐息を洩らすと、突如付近で思わぬ声が響いた。
「こんなところで何やってるんですかっ!」
当然、たったそれだけでも相手が誰なのか分かる。声を張り上げることなんてそうそうないのに、そんな驚いた声をしてどうしたんだと視線を運ぶと、足早にこちらへ向かってくる人影が映り込んで、黄瀬はひっそりと微笑んだ。
なんだ今日はツイてたんスね
「黄瀬くん聞いてるんですか!?」
目の前で立ち止まった黒子は黄瀬の姿に目を瞠った。日頃からこの人の行動はたいていの場合褒められたものではないけれど、今日のこれは殊更におかしかった。
「そんな大きな声出さなくても聞こえてるっスよ」
「だったら答えてください」
こんな雨の中、家にも帰らず一体何をしているのか。黒子は隠すことなく怪訝な視線を黄瀬に向けた。
「何って雨やどりっスよ」
見たままっスけどと憎らしげな表情で答える黄瀬に、黒子はイラっとして声を荒げた。
「ふざけないでください、これのどこが雨やどりなんですか、こんなに濡れてたら意味が無いってことくらい、いくらバカなキミでも分かりますよね、それとも分からないくらいバカなんですか」
折り畳んだ傘をぎゅっと握りしめて、言いたいことを一頻り吐き出した黒子が息を衝く。そして最後に小さく零した。
「こんなのは、心配します」
黒子が捲し立てる姿は久しく見ていなかったが、それよりも黄瀬を驚かせたのは最後に耳を掠めた言葉だった。
「それは、うん、そうっスね」
ごめん、とすまなそうに零した黄瀬に、黒子はふぅっと息を吐いた。
「もういいです」
なぜこんなところでびしょ濡れになりながら雨宿りをしているのか、それだけが腑に落ちなかったが、黄瀬の行動の意味を理解できたことなんて然程ないのでまぁいいかと、とりあえずは家に帰そうと促す。
「送ります」
けれど手にしていた傘を再び開いてそう言った黒子に、今度は黄瀬が不思議そうな顔を見せた。
「っていうかなんで黒子っちここにいるんスか」
それはごく自然な疑問で、今日は会う約束もしていないのに、こんなところで黒子に会うこと自体不可解だった。
この付近に黒子の興味をそそりそうなものがない以上、自分に会うこと以外の目的は考えられなかったが、それなら尚さら理由が分からない。
毎日のように誠凛に迎えに行っているのは事実だけれど、いつもそれを鬱陶しそうに拒む黒子が、今日たまたま来なかったからといって、それを心配してここまで来るとは思えない。だとしたらどうしてここにいるのかと、朦朧とする頭で考えても、黄瀬にはまったく見当がつかなかった。
「今日うちに来る約束とかしてないっスよね」
回らない頭ではそれくらいしか思いつかなくて、ケータイを取り出した黄瀬が恐る恐る聞くと、ビクっ肩を震えさせたのは黒子の方だった。
「別に偶然です」
この条件下でもっともありえない理由を挙げた黒子に、そんな分かり易いウソがあるかと、黄瀬は苦笑交じりに口を開く。
「偶然って、」
けれど着信履歴を埋めるようにして並んだ番号を見た瞬間、それが自分の所為だと知る。ごめんと再び謝ろうとしてすぐにそれを飲み込んだのは、きっと触れられたくないから偶然だと言ったわけで、黒子がそう言うならそれでよかった。
「そんなことより早くしてください、傘持ってないんですよね」
話を逸らすためなのか、あっという間に話題を元に戻されて、黄瀬は困ったようにうーん、と渋った。
「まぁそうなんスけど、あともう少しここに居たいんスよ」
不自然すぎるこの言葉に、黒子ははじめて相手が何かを隠していることに気が付いた。
「ここに一体何があるっていうんですか、本当に風邪引きますよ」
けれどそれが何なのかは見当もつかず、言葉で説得できないなら強引に連れ出すまでと黄瀬の手を取ったときだった。
「なるほど、そういうことですか」
黒子が納得したように言い、口元を歪めた。
「何かあるんじゃなくて、何もないからですよね」
意味深に言葉を紡ぎ、差していた傘を地面に落とす。
「この雨の中、キミとボクの二人だけ、誰もいないし誰も来ない」
自覚してなのか無自覚なのか、甘く艶のある声で黒子が囁き、黄瀬はあからさまに狼狽した。
その様子に黒子はほくそ笑んで、自由になった両手で黄瀬のブレザーの襟を掴んだ。
「今なら、キスくらいしても構わないですよね?」
グイッと強引に引き寄せて、唇間近に黒子が口の端を上げた。
「え…?」
濡れた瞳から目を離すことができず、だんだんと近付く唇に黄瀬の理性が飛びそうになる。けれどあと数ミリというところでグっと黒子の両肩を掴み、力任せに引き剥がした。
「それはダメっス」
その反応は確信に足りて、黒子はふっと笑みを溢した。
「いつからですか」
すぐさまキツい目つきで対峙した黒子に、それが罠だったと気付いたときにはすでに遅く、完全にバレてしまっては黄瀬に誤魔化し通す自信はなかった。
「あー‥と、朝からっスかね」
黒子に叱責されるのではないかと身構えた黄瀬は、視線を逸らして相手の肩越しに降る雨を見つめた。激しく音を立てるそれが、別の世界の気さえする。
「何度ですか」
「計ってないけど結構高いっぽいっスね」
「ですね」
朝から熱があったことを自覚していながら部活も休まず、挙句どしゃ降りの中、雨に打たれて行き倒れ同然になっているなんてありえない。肝心なところで甘え方を知らない相手に黒子は溜め息を溢さずにはいられなかった。
「早く乗ってください」
そう言って背中を向けた黒子に「それはさすがにムリがあるっス」とツッコんだ黄瀬だったが、「バカにしないでください、そんなにひ弱じゃありません」と睨まれては渋々身体を預けるしかなかった。
自分より小柄とはいえ厳しい練習に耐えているのだから、その気になれば同じ男を担ぐことくらい造作もないと分かっている。
ただ、黄瀬にとってはそういう物理的なことではなくて、この状況が情けないと思うから避けたかった。常に自分が守る存在でいたいのに、逆に助けられるなんて不甲斐ない。
動けないほどの体調不良を隠していたのは、他人から見れば些細なことなのかもしれない意地があるからだった。
惨めなこの状況を嘆くように黄瀬がハァーっと深い溜息を付くと、首筋に感じた熱い息に、黒子は不機嫌を露わにする。
「なんですぐに具合が悪いこと言わないんですか」
正直、こんな身体でよく今まで立っていられたなと思うほど、背中からも回された腕からも、熱を帯びているのを感じる。
「だってそんなのカッコ悪いじゃないっスか」
左肩に力なく凭れる黄瀬の顔をちらりと盗み見て、黒子は思ったままに悪態を付いた。
「本当にバカですね、キミにカッコいいところがあるならむしろ知りたいくらいです」
「うわ、弱ってても容赦ないっスね」
病人にも手加減ない相手に黄瀬があからさまに声を弱めると、思わぬ返しが鼓膜を揺らした。
「それでも好きってことです」
目が合わないようにまっすぐ前を向いた黒子の横顔は、どこかとても切なげだった。
「キミが甘えるの、キライじゃないと思いますよ」
穏やかに、けれど淋しげに響いた声に、黄瀬はあぁそうかと後悔する。
「ごめん、」
「もういいからしゃべらないでください」
苦しそうに息をする黄瀬を遮って、黒子もまた口を噤んだ。
先程までは轟音でしかなかった雨音が、今は心地よく耳に響く。
黒子の背中から感じる温かい体温に安堵して、ギリギリのところで繋いでいた緊張が途切れたのか、黄瀬はふっと意識を手放した。
それを知った黒子もまた、背中に温かな鼓動を感じて安心すると、未だ激しく降り続ける雨の中、黄瀬の家へと急いだ。