どのくらい気を失っていたのか。
ふと目を覚ました黄瀬は、暗闇の中ぼんやりと映る天井を見ながら記憶を辿った。
雨やどりをしていたのは傘を持っていなかったからではなく、極限まで熱を持った身体が言うことを聞かなかったから。いつ倒れてもおかしくないと思えるほど気力も体力も限界で、どうやって家に帰ろうかと途方に暮れているところへ、黒子が偶然にもやって来た。
自分が思うよりもずっと大事にされていることを知って、幸せな気持ちで背中に身体を預けると、その温もりと安らぎからあっという間に意識を手放していた。
そしてそこから記憶がない。
無警戒はキミの過失
部屋の電気は消され、しんと静まり返っているところをみると、長いことこうして眠っていたらしい。
虚ろながらも覚えているのは全身が凍えるほど寒かったことで、発熱と雨に打たれたことで冷え切った身体が震えるのを止められなかった。記憶の片隅で何度も寒いと口にしていたような気がする。
濡れた制服を着替えさせ、ベッドに寝かせてくれたのか、今は随分と温かく寒気も治まっていた。
黄瀬は働き始めた頭で現状を把握すると、だいぶ落ち着いた容体に、これなら明日には全快しそうだと安堵した。けれど、自分が起きたとき傍らに黒子が付き添ってくれていることを勝手に期待していた黄瀬は、あたりにその気配を感じず、ひとり淋しい気分になった。
微かに残る黒子の感触が記憶に鮮明で、布団に深く身を沈めると鼻をくすぐるあの香りを思い出す。不確かだけれど、おそらくついさっきまでここにいたような気がする。
もう少し早く気が付けば間に合ったかもしれないと、自ずと後悔が込み上げた。
ちゃんと帰れたのか、雨は平気だったのか、記憶が戻りはじめると黒子のことが徐々に不安になり、頭を巡る懸念が途端に黄瀬を寝付けなくさせた。
濡れたまま帰ったのなら風邪を引く可能性だってある。人の心配をできる立場ではないけれど、こんなにも気になるならいっそのこと電話でもして確かめようと思ったとき、ゆっくりと寝室のドアが開き、誰かが中に入って来る気配がした。
それが誰なのかは確かめるまでもなくて、やっぱり帰ったわけじゃなかったのだと口元が緩んだ。黄瀬は薄っすらと目を開けると、視界にその影を捕らえる。
おそらく濡れた服から着替える必要があったのだろう。黒子には少し大きめのシャツは、自分がその辺に脱ぎ散らかしていた部屋着だった。けれどそれを一枚羽織っただけなのか、その下は素足を晒していることにドキリとする。
普段だったら頼んでもしないような無防備な格好は、具合が良くても悪くても目の毒でしかない。
気遣うようにドアが閉められ、わずかに差し込んでいた常夜灯の光が遮られると、部屋は再び闇に包まれた。
ミネラルウォーターと空のグラスを手にして入って来た黒子はそれらをナイトテーブルの上に置くと、ちらりと黄瀬を盗み見る。
慌てて寝たふりをした黄瀬だったがそれを黒子が疑うことはなくて、少し屈み込んで額にそっと手を当てると、何かを思案するようにしばらく佇んで、すっと姿勢を正した。
このまま出て行ってしまうのではないかと遠退いた影に焦燥して、黄瀬は再び気付かれないよう薄っすらと目を開けた。
するとそこにいたのは羞恥に耐えるような表情をした黒子で、黄瀬は一瞬目を疑った。
暗闇に慣れ始めた瞳はそれが見間違えではないというけれど、理由が分からず、浮かび上がった疑問符は幾重にもなった。
一体どうしたのかと思っていると、そんな黄瀬を傍らに、黒子は腕を交差してシャツの裾をぎゅっと握り締めた。
ゆっくりと躊躇いがちに捲り上げられていくシャツと、徐々に暴かれていく肌。
その仕種が示すこのあとの展開は一つしかなくて、黄瀬は当然狼狽した。それだけはないだろうと頭の大部分では思っているのに、他には考えられない可能性に胸がざわつく。
この行動が黒子自らのものであるとは到底信じられなくて、黄瀬は夢と現の狭間を彷徨っているような感覚にさえ陥った。
腰骨から腹筋、胸から鎖骨へと、次第に晒されていく肌に、どうしていいのか分からず、本人の耳にまで届くのではないかと思うほどの心音と、心拍数だけが異常に上がっていった。
首筋を通り、最終的に両腕を抜けたシャツは、重力に逆らうことなくパサっと落ちてその場に皺を作る。
思った以上の高熱に未だ浮かされているのではないかと、この都合のいい夢を疑っていると、シャツを脱ぎ捨てた黒子が布団を捲り上げ、入り込んだ冷気と、纏わり付く空気の冷たさに、これが現実だと確信した。
暖を求める猫のようにすっとベッドへ潜り込んだ黒子は、隙間風が入らないようきっちり端を締めると、肌を合わせるようにぴたりと黄瀬の身体に寄り添った。
躰から伝わる温かな熱、肌理の細かい滑らかな肌。
その感触が衣類を通したものではなく、肌と肌の重なる直接的なものだと知ったとき、黄瀬は再び驚いた。
着替えさせてくれたという思い込みから疑いもしなかったが、まさか自分も何も纏っていないとは思わない。
直に触れる肌と、無防備に詰められた距離が意図せず黄瀬を誘い、抑えられない劣情となって身体を侵食した。
欲望を吐き出した直後でさえ、汗ばんだ肌に煽られ欲望を止められなくなるのに、この状態はあまりにも非情で、黄瀬はどうしてこうなったのかを考えるよりも、止め処なく押し寄せる激情に流されないよう耐えるのに精一杯だった。
黒子の腕がゆっくりと伸ばされ、肩を抱くように身体を包み込んでくる。暑苦しいと嫌がる相手を無理やり抱いて眠るのはいつも自分の方で、その逆にはまるで免疫がない。
本人にとっては何気ない行動なのかもしれないが、黄瀬の鼓動は俄かに加速し、それが肉欲から来るものなのか、緊張から来るものなのか、判断がつかなくなっていた。
ただ、原因がどちらであったとしても行き着く先は同じで、これ以上理性を繋ぎ止めておくことはできなかった。
黄瀬は衝動的に黒子の細い腰に腕を回すと、手荒く自分のもとへ抱き上げた。
「…っ!?」
それに喫驚したのはもちろん黒子で、突然のことに何が起こったのか一寸分からなかった。けれど事態が黒子の理解を待つことはなくて、唐突に引き上げられたかと思うと今度は両脇に手を差し込まれ、そこから一気に上へと引きずられた。
視線を強引に合わせられて、黒子はようやく身に起こったことを把握する。
「黄瀬くん、起きて‥!?」
不測の事態に心臓がバクバクと激しく音を立て、動揺を隠せない。
「い、いつからですかっ!?」
「黒子っちが部屋に入ってくるちょっと前からっスかね」
要するに一部始終を見られていたということで、その事実にじわりと全身が汗ばんだ。
今までの行動は相手に意識がないと思っていたからこそできたことで、普段だったら死んでもやらない。
にやにやと唇に笑みを浮かべた黄瀬に、できることなら今すぐにでも死にたいと、黒子は本気で思った。
「で、なんでこんなことになってるんスかね」
しかしそんなムダなことを考えているヒマは一時もなさそうで、絶対にされているのだろう誤解だけは即座に解かなくてはならなかった。
「勘違いしないてください」
「勘違いってなんスか」
黄瀬がいやらしく笑い、余計なことを口走ったと思ったときには後悔しか残らない。
「これにはちゃんとした理由があるんです」
「だからその理由を教えて欲しいんスよ」
動揺は動揺しか呼ばず、なんとか説明しようと頭をフル回転させてみたものの、追い詰められたプレッシャーに言葉が上手く出てこなかった。その焦りから鼓動はますます速くなる。
「心臓の音すごいっスね」
冷やかすように告げられて、黒子の顔がカァァァと赤く染まった。羞恥に堪え兼ね身を捩っても、背中に回された腕に身体を押さえ付けられてはそれもままならない。
「だからそれは黄瀬くんが、」
「オレが?」
「キミが、あんなふうに寒いって言うから、」
そう言われて記憶にある残響が再び黄瀬の脳裏に甦る。そういえば寒いと繰り返していたすぐ横で、それを心配する声が聞こえた気がした。
「家に着いたときにはもう驚くほど身体が冷え切っていて、震えも全然止まらなくて、」
とりあえず髪を乾かし、着替えさせてベッドに寝かせたが、それでも震えが止まることはなくて、「寒い」とうわ言を繰り返す姿があまりにも辛そうだったのだと、黒子は言葉を選ぶようにゆっくりと付け加えた。
「うん、それで?」
先ほどとは打って変わって、黄瀬が優しげな目をする。
「だから、」
どうにかならないかといろいろと思案した結果、一番即効性があって効果的な方法が人肌だという結論に達したらしい。
目を逸らしながら決まりが悪そうに告げる黒子に嗜虐心を煽られ、黄瀬はわざと意地の悪い言い方をする。
「それで何も着させられてないわけっスね」
「そうやっていちいち絡むのやめてください」
うざいですと眼光鋭く見下ろす黒子に、さすがに茶化し過ぎたかと黄瀬が苦笑する。
「もう二度としないからいいです」
相手が優位に立つのがイヤで、負けじと言い返した黒子だったが、黄瀬が見せたのは思っていたのと対照的な表情と、期待していたのと真逆の反応だった。
「たぶんそうなるっスね」
経験上知っている。こんなふうに何かを含んだ言い方をするときは大概の場合、自分の望む流れじゃない。
「黒子っちさぁ、これって結構捨て身っスよね」
黄瀬の台詞に黒子は咄嗟に身構えた。
「なんのことですか」
「まぁ、おかげでオレの身体は温まったんスけど、黒子っちにとっては不覚でしょ」
「言ってる意味が分からないです」
言葉のままに怪訝な顔をする黒子を気にも留めず、黄瀬は自分のペースで話を進める。
「聞いといてなんなんスけど、何でこんな状態になってるのかとかほんとはどーでもいいんスよ」
「じゃぁなんで聞いたんですか」
掴めない会話に黒子が徐々に苛立ちはじめると、それを煽るように黄瀬が笑った。
「ただの興味本位っス」
「それは殴っていいってことですか、病人相手でも手加減しませんが」
「いいっスよ、でもその前に当然付き合ってもらうから」
「なにをですか」
黄瀬は目を細めて明け透けに笑うと、黒子の項を引き寄せ鎖骨のあたりをツーっと舌で舐め上げた。窪みをなぞる舌の感触にゾクリとしたものが背筋を走る。
「な…っ」
「相変わらず鈍いっスね」
向けられた視線に捕まって、黒子は思わず息を飲む。
「この状況ですることなんてひとつしかないじゃないっスか」
そう囁かれたときにはすでに逃れられない糸を巡らされていて、瞳の奥に潜む相手の欲望に気付いたとき、黒子は自ずと肢体を震わせた。
「やめてください、そんなつもりだったんじゃありませんっ」
拒んだところで無駄だと分かっていても、素直にはいそうですかと納得なんてできず、黒子は懸命に黄瀬の腕から逃れようと藻掻いた。けれどそれが受け容れられるはずもない。
「自分から誘っておいて今さら何言ってるんスか」
「誘ってませんっ」
「だとしてもオレが誘われた以上、誘ったのは黒子っちっスよ」
つもりとかつもりじゃないとか今はもうそんな次元の話ではなくて、目の前で服を脱いで、ベッドに潜り込んで、身を寄せて、無防備な色香を放って惑わした事実がすべてだった。
「それが無自覚だったとしても」
逃げ道を塞ぐ一言を放って黄瀬がキレイに笑う。自覚のない行動だと知っていて、それを逆手にとられては反論できない。
「そんなこと知りません、第一そんな気分じゃないです」
ずっと付き添っていた黒子にしてみれば体力も限界に来ているし、ちゃんと休まなければ明日にだって支障をきたす。それはもっともな主張だった。
このまま流されて身体を繋ぐわけにはいかない以上、反論できないなら徹底的に拒否するしかない。
「それにキミ、具合悪いんじゃないんですか」
「そーっスね、だからあんまり抵抗しないで欲しいっス」
責めたはずが逆に責め返されて黒子は言葉を失った。熱があるからとか、体調が悪いからとか、そんな真っ当な理由さえ通用しない。黙り込んで悔しそうに見下ろす黒子に黄瀬が追い打ちを掛ける。
「それに今の黒子っちの言葉、具合悪いからってオレが手ぇ出さないと思ってたっスよね」
言われて黒子はドキリとした。そう思っていたのは確かで、あの状態で襲われるはずがないと勝手に思い込んでいた。
だから素肌を晒しても、それで抱き合ったとしても、特段問題ないと思っていた。誘ったつもりも、煽ったつもりも本当になかったけれど、実際は、
― 黒子っちにとっては不覚でしょ
先ほどの台詞が頭を過ぎり、ようやくその意味を知る。
「警戒しなかったのは失敗だったスね」
まっすぐにこちらを見つめる瞳の奥に捕食者の本能を感じ取って、背筋がぞくりとした。
「体力消耗するから問答はこれくらいにして、」
喉元に寄せられた柔らかな唇の感触に、その唇から洩れる甘い吐息に、黒子は思い知らされる。
「ちゃんと責任は取ってもらうっスよ」
もう手遅れなんだと。